これは圏です(はてな使ったら負けだとおもっていた)

きっと何者にもなれないつぎの読者につづく。

文章を書く、と云うこと

文章が書け無いと云う事程辛いモノは無いのでは無いのだろうか。


と云うと唐突だが、何かの衝動に駆られて筆を取ろうとする――と良いつつ大抵はパソコンで書く訳だが――のは良くある事では無かろうか。


取り分け、この高校生という多感な時期は、自分の中に有る何か酷くもやもやしたモノを解消しようとして、悩める文学少年を気取ってやたら小難しい文章を書こうとする。そうした文は往々にして散文詩的な何かに成り下がって居たり、やたらと漢字が多かったり、形而上学的な議論に終始していたり、『形而上学的』等と云ういかにも小難しげな単語を多用していたりするモノだ。全く目も当てられない。挙句何を勘違いしたのか、ありきたりな文章はイヤだとかそれっぽい文章は書きたく無いとか何とか云って、やたら自己批判的な文言を並べたてて悦に入るのが関の山だ。

そんな文章を微塵の恥ずかし気も無くブログとか何かでおおっぴらに公表する訳だ。まったく一体全体何をしていると云うのだ。そんな文章を読む方の身にも成るべきでは無いか。詩だとか論説だとか自己批判だとか云ったところで、所詮は高坊の戯言、自己満足に過ぎない。



本筋から逸れた。要は、この時期は色々と気取って物書きと洒落込みたく成る時期であると云うことだ。そこのところを先ず納得して貰いたい。納得して貰わ無い事には先に進めない。なのであなたは今直ぐ「そういうもんか」と納得して欲しい。そう思わなくても、今は取り敢えず納得して欲しい。否、納得すべきである。この文章は兎にも角にも上の事を"事実"として話しを進めるのだから、納得しなければ全く以て以下の文章は徒労と云う事に成って仕舞う。それでは、余りにも下らないから書くのを止めようと思い至る私に、それでもこの文章書かしめた"何か"に対する冒涜では無いか。――ここで重要なのは、それが「何か」であって「神」では無い。筆者は典型的な都合の良い無神論者だからして、「神への冒涜」等と云う事は到底云えるモノではない。神に誓って。


さて、納得して貰えただろうか。納得して貰ったら、そのまま見なかった事にしてページを閉じるか、或いはコイツ何か云ってやらあとか思いながら先に進んで欲しい。


上で述べた様に、戯曲にしろ小説にしろ、屁理屈にしろ論説にせよ、この時期の文章と云うのは得てしてその時の意味不明な感情の浮沈に触発されて書かれるモノだ。勿論、自分には素晴しく思えるアイデアが浮かんだと思って文章に起こそうとする時もあるが、今はそれは外に避けて置く。



扨。――ナルホド、「さて」ってこう書くのか――こうした文章は、その時の感情に揺さぶられて書かれる訳だから、当然何か明確な、確固たるヴィジョンがあって書かれる訳では無い。

従って、その時の気持を文章にぶっつけようとはするが、その思いだけが空回りし、挙句断念して仕舞うのが殆んどである。



この「書きたいけど書けない」と云うのは辛い。感情だけが高ぶるばかりで、一向に何も出来ない。積のる一方の心に耐えかね、よし、文章でも書いて気を紛らわすか、等とは行かない。何故なら文章が書けないからこそ感情が鬱積して行くのだから。


となるとこれは厄介だ。文章を書きたいと思う程に切羽詰まる事が有ったにもかかわらず、文章が書けないが為に相乗効果でその感情が堆く積まれて行くのだ。



詰まるところ、様々な負の感情の堆積した結果である「書きたい」と云う感情。それが満たされないと云うのは酷く辛いことなのである。こんな下らない雑文を書きながら、自分はもっと他に書くべき事がある、と頭の何処かで声を聞く。勿論、単なる自意識過剰の産物であると知りつつも。然して、その文を書くことは出来ない。その声を満たすには、抱える不満を総て紙上に載せる必要がある。しかし、悩みは己の内にあってこそ悩みなのであって、言葉にし、外に出した刹那、その悲劇的感情は褪色し始める。その方がどう考えても楽に成るのだが、中々どうして憚られて仕舞う。

それは、あたかも自分が世界で最も不幸な人物である様な錯覚に陶酔していたいからだ。そうでなければ説明のつき様が無い。何故悩める自分を有るが儘放置し、一層自分の傷に塩水を摺り込む様な真似をするのか。苦しいと知りつつ、傷口をえぐるのか。それは怖い物見たさと悲劇への羨望の現れなのだろう。しかしそんなもの糞喰らえだ。



こうして今日も、まるで薄っぺらいだけの雑文が、気取り屋の自己批判と共に堆く積まれて行く。