「カウンセラーのパラドックス」の解題――自己言及ぺろぺろ
先日(と云ってももう2週間以上も前だけれど)上げた『凄腕すぎたカウンセラーのはなし ——または、カウンセラーのパラドックス - はてな使ったら負けだと思っている』と云う記事の真意、みたいなのを解説したいと思います。
先に述べてしまうと、嘘つきのパラドックス、ラッセルのパラドックス、不完全性定理といったものに着想を得たものでした。なので、以下ではそれとどういう関係があるのか、と云う話になっていくんですが、なにぶん数学好きな学部二年の書いた文章ですので誤りや誤解などがあるかもしれません。それに、あくまで"着想"であって、正確な解説と云う訳ではありません。なので、面白そう!と思ったひとは自分で調べてみると面白いです。
また、読まれておかしなところに気付かれたら是非ご指摘ください。
では、以下本編です。
ラッセルのパラドックス
論理とかに詳しい方は気付かれたと思いますが、これの元ネタになっているのは『床屋のパラドックス』と云う奴です。これがどういうのかと云うと、
ある街の床屋は、自分で自分の髭を剃らない人だけの髭を剃るそうです。
では、この床屋自分の髭を剃るのでしょうか?
と云う奴です。自分で髭を剃るとすると、『自分で剃らない人だけ剃る』と云う前提に反しますし、剃らないとすると前提から剃らなくてはいけなくなって矛盾します。
このパラドックスは、いわゆる素朴集合論におけるラッセルのパラドックスとの説明として良く使われます。ラッセルのパラドックスと云うのは、
S = {x | x ∉ x}*1
なる集合Sを考えたとき、果して S は S に含まれるのか否か?と云う問題です。
これも先程の床屋のパラドックスと同様に、S∈S とも S ∉ Sとも決定出来ず、たったこれだけの式から素朴集合論の矛盾が導かれてしまって、当時の人々を大いに悩ませました。集合論はあらゆる数学の基礎を成しているので、こいつは大問題だったんです。
そこで、「取り敢えず集めれば集合」みたいな自由な感じだった素朴集合論を捨てて、どこからどこまでが集合なのか、と云うことをしっかり決めよう、と云う運動が起こりました。そうして産み出されたのが、公理的集合論と呼ばれる集合論たちです。たち、と云うのは幾つか種類があるらしいので*2。大雑把に云うと、世の中には『集合』と『クラス』の二種類があって、その内なにかの要素になれるのは集合だけ、と云うような取り決めがあります。で、そういった諸々の公理から、『そもそも集合Sなんて存在しねーんだよ!!』と云う結論が出るようになりました。ヨカッタネ!
で、件のカウンセラーのパラドックスでは、『自分のことが良くわかっている』と云うのが『自分自身を要素に持つ』と云う命題に対応していたわけです。
ゲーデルの不完全性定理と嘘つきのパラドックス
前述のラッセルのパラドックスと云うのは、理解するのに色々な比喩が考えだされていて、他にもグレリングのパラドックス『「自己形容的でない」は自己形容的か?』、市長市のパラドックス『自分の治める市に住んでいない市長だけが住む市の市長は何処に住む?』、図書目録のパラドックス『自分自身の書名が含まれていない図書目録を集めた図書目録は自分自身の書名を載せるべき?』、など色々あります*3。僕が好きなのは市長市です。
で、そんな比喩が既に沢山あるのに、なんであんまり違いがわからないような、『カウンセラーのパラドックス』とか云うのを今更考案したのかと云うと、この比喩は微妙にゲーデルの不完全性定理の比喩にもなってるんじゃね!?と云うことに気付いたからです。
無矛盾で算術が使えるくらい強い体系だと、
- その体系内では肯定も否定も出来ないような命題が存在する
- 自身の無矛盾性もそんな命題のひとつ
と云うような感じです。具体的には、算術が使えると或る種の自己言及が出来て、
俺は証明出来ない!!!
と主張する命題が作れちゃうんだそうです。
で、この命題はその体系内だと確かに証明出来ないんですが*4、その体系の外側からみると、正しいと云うことがわかります。
何でかと云うと、結局その体系内では証明出来ていないので、それは正にこの命題自身が主張していることだからです。
で、これはカウンセラーのパラドックスだと『自分で考えてもわからなかったから、師匠に相談にいった』くだりに対応するわけです。
なんで一つの比喩でラッセルのパラドックスもゲーデルの不完全性定理も説明出来るのかと云うと、この二つの根を辿っていくと、嘘つきのパラドックス*5と呼ばれるものに辿り着くからです。それは、
と云うパラドックスです。エピメニデスが正直者なのか嘘つきなのか考えようとすると泥沼にはまってしまいます。
……が、この命題を良く考えると実はパラドックスになっていない*6ので、より簡潔で本質的な表現は下のようになります。
「この文章は偽である」と云う文章は真か偽か?
ラッセルのパラドックスもゲーデルの不完全性定理も、この嘘つきのパラドックスと同じ様に自己言及の形を持っています。ラッセルのパラドックスの場合は「そんな自己言及はそもそも出来ないよ!」と云うのが結論で、他方で不完全性定理の場合は「真偽に関しての自己言及は上手くいかないけど、証明可能性については言及出来るよ!」と云う発見が核になっているわけです。
こういった具合に、根本となる原理の部分は同じ(結論はちがいますが)であったため、一つの比喩でそれなりに両方ともの雰囲気が醸せたのかな、と。
と云う訳で、何か結論があるわけじゃないですが、以上でした。