これは圏です(はてな使ったら負けだとおもっていた)

きっと何者にもなれないつぎの読者につづく。

本格ミステリにおける「真相」の問題について 〜三津田信三『作者不詳 ミステリ作家の読む本』〜

※おことわり:この記事は 2012/01/14 (土) にサークルで行われた三津田信三『作者不詳』読書会のレジュメを一部加筆修正したものです。作品の全体にわたるネタバレが含まれていますので、未読の方はご注意下さい。※

趣旨

『作者不詳 ミステリ作家の読む本』は三津田信三の第二長編にして「作家」シリーズ第二作目であり、今回の課題本はそれに大幅な加筆修正を加えた文庫版である。作者の著作としては他に最近の「刀城言耶」シリーズが有名であり、こちらもホラーとミステリの融合が特色であるが、本書では初期の「作家」シリーズの特徴であるメタフィクション的趣向を用いてそれを実現している点がそれと異なる。
今回の読書会では、『作者不詳』および「刀城言耶」シリーズに共通して見られるホラーとミステリの融和と推理の取り扱いを通して、ミステリにおける『真相』の問題とホラーや他分野とミステリの関係性を掘り下げてみたい。

課題本について(注:この節は盛大なネタバレを含みます

前述の通り、本書はメタフィクション的手法を用いてホラーとミステリの融合を図った作品である。「作家」シリーズ第一作の『忌館 ホラー作家の棲む家』の前日譚を起こした手記と云う形式を取っているが、内容には直接の関連性はない。
物語は、三津田の親友・信一郎信一郎が杏羅町の〈古本堂〉で『迷宮草子』なる同人誌を入手するところから始まる。『迷宮草子』に収録された怪異譚を読んだ二人を怪異が襲いはじめ、その物語に合理的な解決を付けることで二人はその怪異から逃れようとする。

七つの怪異譚

『迷宮草子』に収録された七つの短編と、それぞれに二人が付けた解決を纏めたのが次に掲げる表である。

短編名 現象 解決
霧の館 白い服の幼児。ドッペルゲンガー。沙霧は何を見て恐怖したのか?沙霧(?)が声に反応しなかったのは何故?珈琲の湯気から近くにいる筈の殺人犯はどこに? 沙霧は耳が聴こえなかった。幼児は狸を見間違えた。
子喰鬼縁起 乳母車からの嬰児消失、誘拐。ひとまず前日に誘拐事件を起こした男が疑われる。
  • 「黒井」が赤ちゃんを藪畳に隠し、攫った
    • 泣かなかったのが不自然
  • 父親が不義の子と知り始末
    • 時間・隠し場所がない?
    • 二重底の乳母車で解決?
      • 怪異が続くので違う
    • タイミングの問題
  • 丁江夫人が攫った
    • 想像妊娠。腹に隠し嬰児は死亡。
      • 尚も怪異が止まない→我が子として育てた。
娯楽としての殺人 真戸崎が毒を飲んで変死。自殺と結論されるが、「私」は「親友を殺す」ことについての原稿を見付け、殺人として捜査を始める。
  • 情景描写から消去法→三人の下宿生は犯人ではない
  • 大家の息子も違う
  • 『娯楽としての殺人』は実は真戸崎が書いた。毒殺しようとして誤って自分で飲んだ。
    • 〈彼〉は特定出来ないが、福利っぽい。
陰画の中の毒殺者 「民子」を取り巻く男たちの会で殺人が起きる。ワインに毒が盛られたと思われるが、誰にも機会がない。
  • 中杉が犯人。笠木は左利きだった。
    • ワインは予想不可、性格の問題
  • 矢尾が窓の外から毒を入れられる
    • グラスを渡す方法がない
  • 民子が犯人。ワイン全てに毒を盛り、珈琲に解毒剤を混ぜた。
    • ワインは予想出来ない
  • 井間谷が犯人。遅溶性カプセルを使用
※いずれも解釈。決定打なし※
朱雀の化物 「朱雀の化物」により、学生のグループが次々と毒殺・バラバラ殺人の被害者となる。
  • 事件ノートは犯人が書いたもの
  • Yと仲の良かったシゲキの犯行
    • 死んでいるシーンに『朱雀の化物』が登場している
  • 犯人=視点人物は「Y」
    • 「自殺した」ことにされているイジメだった
    • ミヨが一人で荷物を持てる筈がないことなどもそれを補強
時計塔の謎 空中の密室。千砂は本当に事故死?なぜ太陽が刺しそうなのに何故千砂はサングラスを取りに戻らなかったのか?何故テラスから身を乗り出したのか?
  • 時間の問題。千砂は太陽に背を向けていたので塔から降りなかった。
  • 幼児「ルリちゃん」がミラーで光を当て、立ち眩みを起こした千砂は落下死
首の館 孤島の連続殺人。小説への見立て首斬り殺人。全員の首が斬られているので犯人が存在し得ない。
  • 神童末寺が犯人の可能性は?
    • 存在しない人間が現れたら不審
    • 神童が犯人なら語り手だけでなく全員に対して最初に死亡を確認させる
    • しかし全員の首が斬られている以上神童が犯人では?
      • 記述を信用する限り死んでいる
  • 舞々が犯人。首は自殺した双子の妹。
    • 身分証を持っていない舞々の身許を知る方法がない(=最初から知っていた)
    • 「舞々の首」でなく「彼女の首」と書いている


こうして並べてみると、『作者不詳』には実に色々な種類のミステリの事件や推理形式が含まれていることがわかる。また、後半に進むに従って、一定の解釈を下すまでの過程で様々な可能性が取り沙汰されては棄却されていく、という或る種「推理合戦」的な様相をも呈してくる。
こうして一見「合理的」な解決を与えられた後もしかし、三津田たちは更なる怪異に見舞われる。信一郎は読めない作者名の意図、名前の符合などから全ての原因は三津田にあったと結論づけ、終いには自分の存在をも否定する。
ここで開陳される推理、推論などは部分部分を取り出してみたときにはかなりの説得力を有しているが、全体として見ると一貫性に欠け矛盾している。その事に気付いた三津田の指摘により、文庫版では彼らはすんでの所で引き戻される訳だが、それでも結局彼らは読者をたばかり変化を続ける『迷宮草子』の中に取り込まれることとなってしまう。『草子』の中に自分達の物語を発見した信一郎は云う。

「僕たちが助かる道はひとつ」(中略)
「今、この台詞を読んでいるあなたが、『迷宮草子』の謎を解くことです。ただし、失敗した場合は、もちろん

([1] 下巻 P.428 より)

これは、暗に『迷宮草子』の物語に他の解釈を見出せ、と云っているようではないだろうか?実際、『霧の館』には矛盾点が指摘されている。他の解決は可能なのだろうか?

本格ミステリと『真相』──あるいはミステリの出自

ここで、ミステリの出自と云うものを考えてみる。『21世紀本格宣言』において島田荘司は次のように書いている。

「モルグ街の殺人」が持っていた時代的な意味は、当時最も神秘的であった幽霊現象と、当時最新鋭であった科学の成果とを、果敢にも出遭わせた精神にあったと私は考えている。ポーは、多くの犯罪に続いて伝統的な幽霊現象をも、近代警察の科学知識と、陪審制の法廷の中央に引き出したのである。

([4] P.17 より)


ミステリは幻想文学の流れを汲みつつ、そこに近代科学的思考法が組み合わさり、謎を「解体」していく文学であると云う訳だ。ホラーは幻想文学の系譜であるとすれば、三津田の試みているホラーとミステリの融合と云うのは、一見ミステリの祖先へと回帰してゆく試みとも取れる。しかし、ミステリの本質が謎=恐怖の解体にある以上、両者を両立するのは容易なことではない。怪奇に傾けばミステリの合理性が霞み、解決が目立ちすぎては怪奇の方が霞んでしまう。

三津田のそうした危うい試みを支えている方法の核は、「推理合戦」的な趣向であると云える。それは上で言及したような『作者不詳』における複数解釈の提示や別解の示唆であったり、「刀城言耶」シリーズにおける二転三転する解決編のあり方であったりする。 一応の「真相」らしきものを提出しつつも、 複数の可能性を取り沙汰することで絶対性を否定し、モヤモヤ感を残すことに成功しているのだ。また本書では、要所要所で取り上げられる『迷宮草子』の記述の信頼性と云う根幹に関わる問題や、そもそも怪異の中心である『迷宮草子』自体に確たる法則性を見出そうとする行為そのものの危うさも、この試みを成功させるための重要な要素となっている。

これは、ミステリとしてはあやふやな形式に思えるが、様々な解釈を並べて相対化してみせたり、記述の信頼性や法則を仮定することのあやうさを提示することで、実際にはミステリがこうした問題を孕んでいることを浮き彫りにしているとも云える。『作者不詳』終盤の更なる怪異の中での、信一郎の台詞は実に示唆的だ。

「謎の対象が何であれ、推理する者の視点の置き方によって、取り上げる事項の選択によって、解釈など千差万別に変わるものなんだ。よって僕が解き明かした真相は、ある現象を説明できる、あくまでもひとつの解釈にしか過ぎない。何の証明にもならないんだよ」

([1] 下巻 P.410 より)


ミステリにおける「真相」と云うのは、数ある解釈の中で最も説得力のあるものがそう呼ばれるに過ぎない、と云う訳だ。怪異に憑かれた信一郎は自身を「想定読者」、三津田を「作者」と表現するが、役割的には信一郎が「探偵」、三津田が「読者」と考えることも出来る。ここで「三津田が納得したから怪異が消えた」と云うのは、そのまま「読者が納得したから」と読み替えることも出来る。

これは『モルグ街』以降、透徹した論理と科学的思考によって神秘を解体してきたミステリの一つの限界を指し示してもいる。こうした問題は、後期クィーン的問題とか、「操り」などと呼ばれてきた問題*1と同根である。
後期クィーン的問題については筆者が後期クィーンの作品を全く読んでいないため概説するに留めるが、探偵が開陳した「真相」が本当に真相であることをどうやって保証するのか、と云う問題と思っておけばよい。
麻耶雄嵩などはこの問題を逆手に取り、無謬性を保証されている「銘探偵メルカトル鮎と云う探偵を創出している。つまり、「探偵がいったことが何がなんでも真実」と云う訳である。他にも色々と考えている人がいるらしいので、その辺りに詳しい方の記事を読むと色々わかる。
翻って、この事実を認めて仕舞う行き方と云うのも存在する。城平京の近作『虚構推理 鋼人七瀬』では、凶暴な物の怪による怪異を無効化する為に、その存在を否定する偽りの真相を「でっちあげ」ると云う離れ業が行われる*2。この作品において行われることは旧来のミステリの形式からは逸脱して見えるが、実際にはこれこそがミステリの「真相」の在り方の本質であるとすら云える。

こうした事が可能であるのは、ミステリの「論理」の在り方に理由がある。ミステリにおける「論理的解決」と云うのは、数々の証拠や矛盾点を取り上げて、それらを包括的に説明出来る「解釈」の事を指すことが殆んどである。勿論、証拠やその様態から演繹的に事実を導く推論もあるが、そういった作品はそこまで多くはない。一つ一つの証拠から事実を導くさまを、 通常論理学で扱われる「演繹的(deductive)」な推論と対置して、「帰納的(inductive)」と表現する人も多いが、どちらかというと「蓋然的*3(abductive)」な推論(アブダクション)であると云える*4帰納的推論とアブダクションの違いは一見曖昧だが、帰納的推論は、

カラスAは黒い
カラスBは黒い
カラスCは黒い
∴ 全てのカラスは黒いのだろう

と云うような、個々の現象・個体の性質を全体に一般化して普遍的な法則を推測しようとする推論方法であるのに対し、アブダクションは、

現場には黒い羽が落ちていた
現場に落ちていた生ゴミ袋が荒らされていた
現場にある筈のビー玉がない
現場で「カーカー」と云う鳴き声を聴いた人間がいる
∴ 現場に居たのはカラスだったのだろう

と云った具合に、個々の現象から、それらを全て説明しうる仮説を導くのがアブダクションである。どちらも演繹的な推論と異なり絶対的な推論ではなく、新たな証拠や事実によって崩れうる。前者の推論はアルビノのカラスを連れてくれば崩れるし、後者も実はカラスがいたように見せ掛ける工作が行われた可能性を排除出来ない*5
このアブダクションと云うのは、科学者が新たな科学理論を見出す方法論でもある。 ミステリの出自が「幻想文学」と「近代科学」の遭遇によるものである以上、ミステリがアブダクションによるのは自然な帰結であると云える。

結論

本格ミステリにおける「真相」と云うのは、その真実性を担保出来ない以上、実にあやうい問題を孕んでいることがわかった。しかし、翻って考えてみてミステリをミステリたらしめているのは、この「真相」の存在であるとも云える。あやうさの根本であるアブダクションの原理は科学的思考によるものであり、また真相を与えずに怪奇現象や不可能犯罪が描かれるのみでは、本流の幻想小説やホラーと変わらない。

逆に、こうした「あやうやさ」があるからこそ、「推理合戦」形式や「どんでん返し」といったものが成立と云える。また、チェスタトンや泡坂の「逆説」が本格ミステリとして扱われるのも、本格の方法論がアブダクションに大きくよっている為だろう。関連する「後期クィーン的問題」や「操り」問題に関してもそれらを克服する過程で多くの優れた作品を産みだしてもいる。

「真相」の孕む「あやうさ」は一見大きな瑕疵とも見えるが、実はこれこそがミステリの本質・原動力であり、 その存在によってこそミステリはここまで豊穣な分野として発展することが出来たのである、と云う主張をもって本稿の結論としたい。

参考文献